医師の時間外労働の一部が記録されていなかった、当直中の診療を割増賃金の対象にしていなかった。こうした未払いが院内調査や労働基準監督署の立入調査で見つかったとき、事務長・人事担当者がまず知りたいのは「どこまで遡って、いくら払うのか」です。この記事は、未払いが発覚した後の対応に絞り、自院のリスク試算、是正勧告の流れ、遡及支払いの範囲と時効、再発防止の順に整理します。根拠は労働基準法の条文(e-Gov法令API)、厚生労働省の監督指導結果と通達、最高裁判決の本文です。2026年10月16日時点の内容です。給与体系そのものの作り方は「病院の医師給与体系の設計」で扱っているので、ここでは触れません。

先に答え: 遡及は原則3年、ただし「いつ支払うはずだった賃金か」で数える

賃金の時効は、労働基準法第115条と第143条第3項の組み合わせで決まります。第115条の本則は、賃金の請求権について「これを行使することができる時から五年間」行わない場合に時効で消滅すると定めています。ところが第143条第3項が「当分の間」の読み替えを置いており、退職手当を除く賃金の請求権は「これを行使することができる時から三年間」とされています。退職手当は5年のままです。

この3年は、令和2年の労働基準法改正(令和2年法律第13号)で2年から延びたものです。同法附則第2条第2項は、改正後の第115条と第143条第3項を「施行日以後に支払期日が到来する」賃金の請求権に適用し、施行日前に支払期日が到来した賃金は「なお従前の例による」と定めています。厚生労働省のリーフレットは、この改正が2020年4月1日以降に支払われる賃金に適用されると説明しています。2026年10月の時点では、旧法の2年が適用される賃金はすでに時効期間を過ぎているため、実務上は「支払期日から3年」で考えれば足ります。

時効の起点は「働いた日」ではなく「その賃金の支払期日」です。たとえば毎月末締め・翌月25日払いの病院で、2023年9月に行われた時間外労働の割増賃金は、2023年10月25日が支払期日です。起点を労働日で数えると、払うべき月を1か月分取りこぼすことがあります。

もう1つの前提は、時効は自動的に効く仕組みではないという点です。民法第145条は、時効は当事者が「援用しなければ」裁判所がこれによって裁判をすることができないと定めています。3年を超える分を払わないと決めるなら、それは病院が時効を援用するという選択です。逆に、医師に未払い額を認める書面を出すと、民法第152条の「権利の承認」にあたり、時効は「その時から新たにその進行を始める」ことになります。社内調整のつもりで作った確認書が、時効を更新させることがあるのです。

図1: 未払い発覚から再発防止までの4段階(概念図)

段階1: 自院のリスクを試算する

労基署に呼ばれる前に、自院の未払い額を一度見積もっておくと、その後の判断が速くなります。試算に必要なのは、時間単価、未払い時間、割増率、遡る月数の4つです。

割増率の下限は、労働基準法第37条とその政令で決まっています。第37条第1項は、時間外・休日の労働について「通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の二割五分以上五割以下の範囲内でそれぞれ政令で定める率以上の率」で割増賃金を支払わなければならないと定めています。政令(労働基準法第三十七条第一項の時間外及び休日の割増賃金に係る率の最低限度を定める政令)は、時間外を2割5分、休日を3割5分としています。同項ただし書により、1か月60時間を超えた時間外労働は5割以上です。午後10時から午前5時までの深夜労働は、第37条第4項により2割5分以上が加わります。

試算例(前提を明記した仮の数値です)

前提は次のとおりとします。いずれも説明用の仮定で、実在の病院の数字ではありません。割増賃金の基礎となる月額賃金が80万円、月平均所定労働時間が160時間の勤務医1人。勤怠に記録されなかった時間外労働が毎月20時間(深夜・休日を含まず、月60時間以内)。遡及期間は3年(36か月)です。

時間単価は80万円÷160時間で5,000円です。割増後の単価は5,000円×1.25で6,250円、月20時間なら月12万5,000円になります。36か月分で450万円です。同じ働き方の医師が10人いれば4,500万円になります。

この数字は最低限の見積もりです。深夜帯の診療が含まれれば2割5分が上乗せされ、月60時間を超える月があれば超過分は5割になります。さらに、訴訟になった場合は後述の付加金と遅延損害金が加わります。逆に、記録上の在院時間のすべてが労働時間になるわけでもありません。試算の精度を左右するのは、どの時間を労働時間と数えるかの線引きです。

線引きの物差しは「指揮命令下」

厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(平成29年1月20日策定)は、労働時間を「使用者の指揮命令下に置かれている時間」と定義しています。さらに、労働時間に該当するか否かは、労働契約や就業規則の定めのいかんによらず「客観的に定まる」としています。就業規則に「時間外は事前承認制」と書いてあっても、承認なしに働かせていた実態があれば、その時間は労働時間です。

医師に特有なのが研鑽の扱いです。令和元年7月1日基発0701第9号「医師の研鑽に係る労働時間に関する考え方について」は、所定労働時間内に院内で行う研鑽は「当然に労働時間となる」としています。所定労働時間外の研鑽については、診療等の本来業務と直接の関連性がなく、上司の明示・黙示の指示によらずに行われる限り、在院していても一般的に労働時間に該当しないとしています。ただし、研鑽をしないことに就業規則上の制裁等の不利益がある場合、研鑽が業務上必須である場合、上司が明示・黙示の指示をして行わせる場合は労働時間に該当します。手術見学の途中で診療を行うことが慣習化・常態化している場合は、見学の時間全てが労働時間に該当するとも書かれています。

試算では、在院時間を「本来業務」「労働時間となる研鑽」「労働に該当しない研鑽」「休憩」に分けます。通達は、労働に該当しない研鑽について、医師本人の申出と上司の確認という手続を例示しています。この手続の記録がない時間は、労働に該当しない研鑽だと後から主張しにくくなります。

図2: 在院時間が労働時間に当たるかの判断チャート(基発0701第9号の整理、概念図)

段階2: 是正勧告はどう進むか

監督の入口は申告と立入調査

労働基準法第104条第1項は、事業場に法違反の事実がある場合、労働者がその事実を行政官庁または労働基準監督官に申告できると定めています。同条第2項は、使用者が申告を理由に解雇その他不利益な取扱いをしてはならないと定めています。こちらは「してはならない」と書かれた禁止規定です。申告した医師を特定して処遇を下げる対応は、それ自体が新たな違反になります。

立入調査(臨検)の権限は第101条にあり、労働基準監督官は事業場に臨検し、帳簿及び書類の提出を求め、使用者や労働者に尋問を行うことができます。臨検を拒んだり虚偽の陳述をしたりすれば、第120条第4号により30万円以下の罰金の対象になります。

是正勧告の中身

厚生労働省が公表した「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果(令和7年)」には、監督署の指導内容が具体的に書かれています。固定残業代を超えた時間外労働に割増賃金を払っていなかった事例では、監督署は「割増賃金の適正な支払について是正勧告(労働基準法第37条違反)」を行い、あわせて「過去に遡って各労働者から事実関係の聞き取りを行うなどの実態調査を実施の上、実際の支払額との差額の割増賃金の支払が必要となる場合には、追加で支払うこと」と指導しています。始業・終業前後の15分を一律に切り捨てていた事例でも、同じく過去に遡った実態調査と差額の支払、労働時間を適正に把握するための方策の実施を求めています。

是正勧告そのものは行政指導ですが、従わなかったときの帰結は重くなります。同じ資料の送検事例では、是正勧告後も是正が図られなかったため捜査に着手し、割増賃金の不払の疑いで書類送検したケースが掲載されています。第37条違反は第119条第1号により「六月以下の拘禁刑又は三十万円以下の罰金」の対象です。

医療・福祉は不払金額で最多の業種

同じ令和7年の結果によれば、全国の労働基準監督署が取り扱った賃金不払事案は22,605件、対象労働者173,016人、金額128億5,782万円でした。業種別では、病院や社会福祉施設を含む保健衛生業が金額で27.1億円(21.1%)と最も多く、対象労働者数でも47,033人(27.2%)で最多でした。件数では3,620件(16.0%)で、商業・製造業に次ぐ3番目です。保健衛生業の数字は病院だけの集計ではない点に注意が必要ですが、医療・福祉の現場が監督行政の重点になっていることは読み取れます。

図3: 業種別の賃金不払金額(令和7年、厚生労働省「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果」別紙より)

旧来の集計である「監督指導による賃金不払残業の是正結果(令和3年度)」でも、1企業で合計100万円以上の割増賃金の遡及支払がなされた事案のうち、保健衛生業は158企業(14.8%)、対象労働者16,652人(25.6%)、是正支払額15億6,740万円(24.1%)で、支払額は業種別の最多でした。厚生労働省の一覧ページではこの集計は令和3年度分が最後で、現在の「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果」とは集計の対象が異なるため、両者の数字を直接は比べられません。

段階3: 遡及支払いの範囲を確定する

範囲を決める3つの期間

遡及の範囲を確定するときに混同しやすいのが、時効、付加金の請求期間、記録の保存期間の3つです。いずれも本則は5年、「当分の間」は3年という同じ形をとっていますが、起点が違います。

賃金の時効は、前述のとおり支払期日から3年です(第115条、第143条第3項)。付加金は、第114条ただし書が請求を「違反のあつた時から五年以内」と定め、第143条第2項で当分の間「三年」に読み替えられています。記録の保存は、第109条が労働者名簿・賃金台帳・その他労働関係に関する重要な書類を「五年間」保存しなければならないと定め、第143条第1項で当分の間「三年間」とされています。厚生労働省のリーフレットは、保存対象の書類として出勤簿、タイムカードなどの記録、始業・終業時刻など労働時間の記録に関する書類を挙げ、賃金の支払期日が記録の完結の日より遅い場合は支払期日が保存期間の起算日になることを明確化したと説明しています。

保存期間と時効が同じ3年なのは偶然ではありません。3年前の勤怠記録が残っていれば、病院は時効にかからない期間すべてについて実労働時間を示せます。残っていなければ、医師側の手帳や電子カルテのログ、メールの送信時刻などから労働時間が推計されることになり、病院は反証の材料を持たない状態で交渉することになります。

図4: 時効・付加金・記録保存の比較(本則5年と当分の間3年、起点の違い)

時効の計算例

前提は次のとおりです。月末締め・翌月25日払いの病院で、今日(2026年10月16日)時点で、医師から内容証明郵便による請求も訴訟もまだない状態とします。期間の計算は、民法第140条により初日を算入しません。

この前提では、2023年10月25日以降に支払期日が来た賃金、つまり2023年9月分以降の労働に対する賃金は、まだ時効期間を過ぎていません。2023年9月25日が支払期日だった2023年8月分の賃金は、2026年9月25日の経過で3年が過ぎています。ただし、病院が援用しない限り裁判所はこれを理由に請求を退けられません(民法第145条)。

医師が内容証明郵便で請求すると、話が変わります。民法第150条第1項は、催告があったときは「その時から六箇月を経過するまでの間は、時効は、完成しない」と定めています。この6か月の間に訴訟の提起など第147条に掲げる手続がとられると、その手続が終わるまで時効は完成しません。催告を重ねても完成猶予は延びない点も第150条第2項に書かれています。医師から通知書が届いた日付は、遡及範囲を確定する重要な記録になります。

図5: 時効の計算例(2026年10月16日基準、翌月25日払いの前提)

付加金と遅延損害金

付加金は、第114条により、裁判所が第37条などの違反をした使用者に対し、労働者の請求により、未払金のほか「これと同一額の付加金の支払を命ずることができる」ものです。条文の文言は「命ずることができる」であり、裁判所の裁量に委ねられています。付加金は訴訟になったときに問題となるもので、労基署の是正勧告によって支払いを求められるものではありません。ただ、交渉が決裂して訴訟になれば、最大で未払額の2倍の負担になり得るという見通しは、早期に払うかどうかの判断材料になります。

退職した医師への未払いには、賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項が適用されます。事業主は、退職の日(退職の日後に支払期日が到来する賃金はその支払期日)までに支払わなかった賃金について、退職の日の翌日から支払をする日までの遅延利息を支払わなければならず、その率は同法施行令第1条で年14.6%とされています。退職者が多い診療科では、この利率が遡及額を押し上げます。

年俸制でも割増賃金は消えない

医師の給与で多い誤解が、年俸に残業代が含まれているという扱いです。最高裁第二小法廷平成29年7月7日判決(平成28年(受)第222号)は、医療法人に雇用された医師の年俸1,700万円に時間外労働等の割増賃金を含める合意があったものの、割増賃金に当たる部分が明らかにされていなかった事案です。判決は、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができない以上、年俸の支払により時間外労働及び深夜労働に対する割増賃金が支払われたということはできないとして、割増賃金と付加金の請求部分を東京高裁に差し戻しました。年俸が高額で、医師が自らの裁量で働けたことを理由に請求を退けた原審の判断は、是認されませんでした。

この判決の射程は、内訳が判別できない定額払いの扱いです。判別できる形で固定残業代を定めていた場合は、別途、その額が法定の算定額を下回るかどうかが問題になります。詳しくは「医師の年俸制と残業代」をご覧ください。

段階4: 支払いの実務と医師への説明

遡及支払いは、全額払いの原則との関係で進め方に注意が要ります。労働基準法第24条第1項は、賃金は通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならないと定めています。法令に別段の定めがある場合か、過半数労働組合または過半数代表者との書面による協定がある場合でなければ、賃金の一部を控除して払うことはできません。過去に過払いだった手当と相殺したい場合も、この条文の枠内で考える必要があります。

支払いの前に、対象者・対象期間・算定方法を書面で確定します。是正勧告を受けている場合は、監督署に対応結果を説明できるよう、医師ごとの計算根拠を残しておきます。在職中の医師には、支払い額と計算の考え方を個別に説明します。説明の場で「今後は残業申請を控えるように」と伝えるのは、ガイドラインが禁じる方向の対応です。ガイドラインは、自己申告できる時間外労働の時間数に上限を設けるなど、適正な申告を阻害する措置を講じてはならないとしています。

宿日直許可を得ていない当直の時間を労働時間として扱っていなかったことが未払いの原因であれば、遡及の範囲は大きくなりがちです。許可の取り直しや範囲の切り分けは「宿日直許可の申請手順」で扱っています。また、副業・兼業先の時間を通算する必要がある医師では、自院の時間外の数え方が変わることがあります。この点は「医師の副業・兼業と労働時間管理」で整理しています。

再発防止: 記録の取り方を変える

未払いが再発する病院には共通点があります。勤怠が医師の自己申告だけで、入退館記録や電子カルテのログと突き合わせていないことです。ガイドラインは、始業・終業時刻の確認・記録の原則的な方法として、使用者自らの現認か、タイムカード、ICカード、パソコンの使用時間の記録等の客観的な記録を基礎とすることを挙げています。自己申告制によらざるを得ない場合は、入退場記録やパソコンの使用時間の記録などと申告時間に著しい乖離があるときに実態調査を行い、所要の労働時間の補正をすることとしています。

記録の保存は義務です。第109条(当分の間3年)に違反すれば第120条第1号の罰金の対象になります。賃金台帳には、労働基準法第108条と施行規則に基づき、労働時間数や時間外労働時間数、深夜労働時間数などを記入する必要があり、ガイドラインは、これらを記入していない場合や虚偽の労働時間数を記入した場合は第120条に基づき30万円以下の罰金に処されると明記しています。

研鑽については、基発0701第9号が環境整備の措置として、労働に該当しない研鑽を行う医師を診療体制に含めないこと、勤務場所と別の場所を設けること、白衣を着用しないことなど、通常勤務でないことが外形的に分かる措置を挙げています。これらは「講ずることが望ましい」とされた措置であり、義務として課されたものではありません。ただし、こうした措置がないまま在院時間を研鑽として扱えば、監督署の調査や訴訟で労働時間と評価される可能性は高くなります。義務ではなくても、取っておくことで遡及リスクを減らせる措置だと理解するのが実務的です。

図6: 再発防止のチェックリスト(ガイドラインと基発0701第9号に基づく整理)

まとめ: 発覚した月にやること

未払いが見つかったら、最初の1か月で次の3つを済ませておくと、その後の選択肢が広がります。1つ目は、支払期日から3年以内の勤怠記録と賃金台帳を確保し、廃棄を止めることです。2つ目は、時間単価・未払い時間・割増率・月数の4要素で概算額を出し、研鑽や待機の線引きを医局と確認することです。3つ目は、医師からの請求書面の到達日、是正勧告の日付、病院が出した書面を時系列で記録することです。時効の完成猶予や更新は、これらの日付で決まります。

遡及支払いは、過去の精算であると同時に、勤怠の仕組みを作り直す機会でもあります。客観的な記録と研鑽の手続が整えば、次の監督で同じ指摘を受けることはなくなります。

参考資料

  • 労働基準法(昭和22年法律第49号)第24条・第37条・第101条・第104条・第108条・第109条・第114条・第115条・第119条・第120条・第143条、附則(令和2年3月31日法律第13号)第2条(e-Gov法令API v1)
  • 労働基準法第三十七条第一項の時間外及び休日の割増賃金に係る率の最低限度を定める政令(e-Gov法令API v1)
  • 民法(明治29年法律第89号)第140条・第145条・第147条・第150条・第152条(e-Gov法令API v1)
  • 賃金の支払の確保等に関する法律 第6条、同法施行令 第1条(e-Gov法令API v1)
  • 厚生労働省・都道府県労働局・労働基準監督署「未払賃金が請求できる期間などが延長されます」(リーフレット)
  • 厚生労働省「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果(令和7年)」および別紙
  • 厚生労働省「監督指導による賃金不払残業の是正結果(令和3年度)」別紙1
  • 厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(平成29年1月20日策定)
  • 令和元年7月1日基発0701第9号「医師の研鑽に係る労働時間に関する考え方について」
  • 最高裁判所第二小法廷 平成29年7月7日判決 平成28年(受)第222号 地位確認等請求事件(裁判所ウェブサイト掲載の判決本文)