退職の話を切り出したら、「退職後○年間、半径○km以内での開業を禁じる」と書かれた誓約書を渡された。あるいは入職時に何気なく署名した書類に、同じ文言があったことを今になって思い出した。近くで開業したいと考えている先生にとって、この一枚は重く感じられるはずです。この記事では、誓約書のどの条項がどんな物差しで判断されるのかを、条文と判決本文で確かめます。勤務医が近隣で開業するケースと、分院長が独立するケースの2つに当てはめ、署名の前後でできる準備まで整理します。

最初の答え:署名していても、誓約書が無条件に効力を持つわけではありません

出発点は憲法です。憲法22条1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と定めています。退職した医師がどこで、どの形で診療するかは、この職業選択の自由の中心にあたります。

一方で、雇用主側にも守りたい利益があります。患者の情報、独自の運営ノウハウ、採用や教育に投じたコストなどです。そこで当事者が「退職後は一定の範囲で競業しない」と合意すること自体は禁じられていません。問題は、その合意がどこまで強制できるかです。

この点について、知的財産高等裁判所の令和元年10月9日判決(令和元年(ネ)第10037号)は、判決本文で次のように述べています。退職後の競業避止の合意は「退職者の職業選択の自由,営業の自由を制限するものであるから,無条件にその効力が承認されることはなく」、使用者の利益、退職者の従前の地位、制限の範囲、代償措置の有無や内容から効力を検討すべきだ、という判断枠組みです。そのうえで同判決は、問題となった誓約書を「公序良俗に反して無効」と結論しました。公序良俗について定めるのが民法90条で、「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする」という規定です。

つまり、署名したかどうかは入口にすぎません。中身が広すぎれば、公序良俗に反して効力が否定される余地があります。逆に、範囲が限られ、雇用主の利益が具体的で、代償も手当てされていれば、有効と判断される可能性も十分にあります。結論は「書いてあるから従うしかない」でも「誓約書なんて無効だ」でもなく、条項ごとの点検で決まります。

図1: 退職後の競業避止合意の有効性を4つの要素で総合判断する構造(概念図)

ここで一つ注意があります。上の知財高裁判決は、鍵の開錠サービスを営む会社と元従業員の事案です。医師やクリニックの事件ではありません。判断枠組みは他業種の裁判例でも共通して使われるものですが、医療機関に当てはめたとき、どの範囲が「広すぎる」と評価されるかは事案ごとに変わります。この記事は判断の物差しを示すものであり、先生の誓約書が有効か無効かを判定するものではない点を、最初にお断りしておきます。

誓約書の条項を、4つの物差しで点検します

手元の誓約書を開いて、条項を次の4つに分けて読んでみてください。知財高裁判決が挙げた要素を、誓約書の文言に対応させた形です。

物差し1:雇用主が守ろうとしている利益は何か

最初に確かめたいのは、制限の目的です。「患者情報や運営ノウハウの流出を防ぐ」のように具体的な利益があるのか、それとも単に「辞めた医師に近くで開業されたくない」という競争回避なのかで、評価は大きく変わります。

知財高裁判決では、雇用主が「開錠という業務の性質上、競業避止の必要性が高い」と主張しました。しかし裁判所は、その会社自身が一般向けの有料講座で開錠方法を教え、道具を販売していた事実を挙げて、必要性の根拠は薄いと判断しています。守るべき秘密だと主張しながら外部に公開していれば、その主張は弱くなるということです。

医療機関に置き換えると、問うべきは「この誓約書は何を守るためのものか」です。どの医療機関でも行われている標準的な診療の進め方は、特定の雇用主に固有の利益とは言いにくいでしょう。一方で、自院の患者名簿や、独自に作り込んだ自費診療の運用マニュアルとなれば、話は違ってきます。

物差し2:先生の在職中の地位と、触れていた情報

二つ目は、退職者がどの立場にいたかです。経営判断に関与し、収支や患者の動向、採用計画を把握していた人と、決められたシフトで外来を担当していた人とでは、雇用主側が守りたい利益の大きさが異なります。

内閣府の規制改革推進会議の働き方・人への投資ワーキング・グループ(第5回、2024年4月)に提出された弁護士の資料も、この関係を整理しています。退職者の地位が低いほど、また制限の期間・地域・業務の範囲が広いほど、従業員の不利益は大きいと判断される、という整理です。資料には、取締役のように地位が高く重要な秘密に触れる人なら、制限が比較的広くても使用者の利益が大きいと扱われ得る、とも書かれています。ただしこれは一人の専門家が会議に提出した見解であり、裁判所の判断そのものではありません。

物差し3:制限の範囲(期間・地域・行為)

三つ目が、誓約書の中でもっとも目につく部分です。期間・地域・禁止される行為の3つに分けて読みます。

期間は、「退職後○年」の長さです。知財高裁の事案では、入社5年以内に退社した場合は退社後3年間、別の従業員の誓約書では入社3年以内の退社で退社後1年間、競合事業者への就職や自ら開業することを禁じていました。裁判所は、前者を「ある程度の長期間」と表現しています。そして後者の1年間についても、場所的な制限がなく一律に禁止していることから、制限の範囲は広いと述べました。期間が短ければそれで有効になる、という単純な関係ではないことがわかります。

図2: 知財高判令和元年10月9日の事案で問題となった2通の誓約書の制限期間(判決本文より)

地域は、「半径○km以内」「同一市区町村内」「同一二次医療圏内」といった限定の有無です。上の判決では、場所的な制限がまったくなかった点が重く見られています。医療は患者が通える範囲で成り立つ事業なので、地域の限定には意味があります。逆に言えば、地域の限定がない誓約書は、雇用主の商圏と関係のない場所での開業まで縛ることになり、広すぎると評価されやすくなります。限定があっても、その範囲が雇用主の実際の患者の分布と合っているかは、別に問われます。

禁止される行為も確かめます。「同一診療科の開業」に限るのか、「医療機関への就職」全般なのか、「競合する事業者の提携先への就職」まで含むのか。知財高裁の事案の誓約書は、競合事業者への就職と役員就任、その提携先への就職、自ら開業すること、の3つを禁じていました。医師の場合、同じ診療科でも、保険診療の一般外来なのか、特定の自費診療なのかで競合の度合いは違います。禁止される行為の書き方が抽象的であるほど、範囲は広く読めてしまいます。

物差し4:代償措置があるか

四つ目は、制限の見返りとして何が支払われているかです。誓約書に「競業避止手当」「退職後の制限に対する対価」のような明示の項目があれば、それは有効性を支える事情になり得ます。

ここで、知財高裁判決のもう一つの判断が参考になります。雇用主は「開錠技師として入社した従業員には比較的高額な賃金を支払っていたので、代償措置は講じられていた」と主張しました。これに対して判決は、賃金は「基本的には在職中の職務に関して支払われるとみるべきもの」であり、それを直ちに退職後の制約の代償とみることには疑義がある、と述べています。

医師は一般に給与水準が高いため、雇用主から「十分な給与を払っていた」と言われることがあるかもしれません。しかし、在職中の給与がそのまま退職後の制限の対価になるとは限りません。誓約書に代償の記載があるか、あるとすれば金額が制限の重さと釣り合っているかを確かめてください。

図3: 誓約書の条項を4つの物差しで点検するチェックリスト(概念図)

判決の射程:何の事案で、どこまで一般化できるか

ここで引いた判決は2つあります。結論だけを持ち出すと誤解を招くため、事案を確認しておきます。

知財高判令和元年10月9日(誓約書が無効とされた事案)

事件番号は令和元年(ネ)第10037号、知的財産高等裁判所第1部の判決で、控訴は棄却されています。鍵の開錠サービス会社が、元従業員の転職などを競業避止義務違反などとして争った事案です。

判決は上で見たとおり、誓約書を公序良俗違反で無効と判断しました。ただし、決め手になったのは、場所的制限がないこと、制限期間、雇用主自身が技術を有料講座で公開していたこと、代償措置の立証がないこと、の組み合わせです。医療機関の誓約書で、地域が限定され、患者情報のような明確な保護対象があり、代償も支払われている場合に同じ結論になるとは言えません。

最判平成22年3月25日(誓約書がなかった事案)

もう一つは最高裁判所第一小法廷の判決(平成21(受)1168、民集64巻2号562頁)です。産業用ロボットや金属工作機械部分品の製造等を営む従業員10名程度の会社を退職した2人が同種の事業を始め、うち1人が前職で営業を担当していた取引先から継続的に受注した事案でした。両者の間に、退職後の競業避止に関する特約はありませんでした。

判決本文によると、新会社の売上高の8割ないし9割程度を前職の取引先が占めるようになりました。前職の会社では、その取引先への売上高が従前は売上高の3割程度でしたが、退職後は従前の5分の1程度に減少しています。原審はこれを不法行為と認めましたが、最高裁は破棄しました。理由として挙げたのは、営業秘密に係る情報を用いたり信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動をしたとは認められないこと、取引先4社のうち3社との取引が退職から5か月ほど経過した後に始まったこと、などです。判決はまた、退職者は競業行為を元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではない、とも述べています。

図4: 最判平成22年3月25日の事案で判決本文が認定した取引先売上の構成比(判決本文の数値より)

この判決は誓約書の有効性を判断したものではありません。特約がない場合に、元従業員の競業行為が「社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法なもの」かどうかを判断し、本件ではそうとはいえないとしました。裏返せば、営業秘密を使う、信用をおとしめるといった不当な方法があれば、特約がなくても違法と評価される余地が残るということです。製造業の取引先と医療機関の患者は性質が違い、患者には医療機関を選ぶ自由があります。医療の場面にそのまま移せる判決ではありませんが、「何をしたら不当な方法と評価されるか」を考える材料になります。

ケース1:勤務医が、勤務先の近くで開業する

ここからは2つの典型的な場面に当てはめます。いずれも想定上の例で、特定の事案ではありません。

一つ目は、ある病院の常勤医として外来を担当していた先生が、病院から数km離れた場所で同じ診療科のクリニックを開業するケースです。入職時に「退職後2年間、当院から半径5km以内で同一診療科の医療機関を開設しない」という誓約書に署名していたとします。

物差しに沿って見ていきます。まず雇用主の利益です。病院が守りたいのは、外来患者の流出と、その医師を目当てに来ていた紹介の流れでしょう。ただ、患者の流出を防ぎたいというだけでは、単なる競争の回避とも言えます。病院固有のノウハウや情報が問題になっているのかが論点になります。

次に先生の地位です。外来担当の勤務医で経営には関与していなかったなら、触れていた情報は限られます。一方、診療科長として収支や紹介元の一覧を管理していたなら、評価は変わってきます。

範囲については、2年・半径5km・同一診療科という限定がついている点で、知財高裁の事案のような「場所的制限なし」とは状況が異なります。代償については、誓約書に対価の記載がなければ、その点は先生に有利な事情になり得ます。ただし、限定が具体的であるほど、有効と判断される方向にも働きます。つまりこのケースは、条項だけ見ても結論が出ない典型です。

実務的には、誓約書の効力を争う前に、立地の選び方で衝突を避けられないかを検討する価値があります。開業地の検討の進め方は開業立地の選び方で整理しています。

ケース2:分院長が、法人から独立する

二つ目は、医療法人の分院長として数年間クリニックを任されていた先生が、法人を離れて近くで独立開業するケースです。

このケースでは、物差し2の「地位」が大きく変わります。分院長は、患者数や収支の推移、スタッフの配置、広告の運用、自費メニューの価格設定など、法人の経営情報に深く触れています。前述の会議資料の整理に照らすと、地位が高く重要な情報に触れていた人ほど、制限が比較的広くても雇用主の利益が大きいと扱われる可能性があります。勤務医のケースより、誓約書が有効と判断される余地は広がると考えておくべきでしょう。

加えて、分院長の独立では、誓約書の効力とは別の問題が起きやすくなります。患者への案内、スタッフへの声かけ、分院の名称や前職の肩書の使い方です。これらは誓約書が無効であっても、別の法律で問題になり得ます。次の章でまとめて確認します。

図5: 勤務医の開業と分院長の独立で、4つの物差しの評価がどう変わりうるか(概念図)

誓約書が無効でも、法律上残るルールがあります

誓約書の効力が否定されても、すべてが自由になるわけではありません。退職後の開業で特に関わる規定を確認します。

患者情報と営業秘密。 不正競争防止法2条6項は、営業秘密を「秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの」と定義しています。同法2条1項7号は、営業秘密を示された者が、不正の利益を得る目的や保有者に損害を加える目的で使用・開示する行為を不正競争の一つとしています。患者名簿や紹介元の一覧は、秘密として管理されていれば営業秘密にあたる可能性があります。同法3条1項は、不正競争で営業上の利益を侵害された者に差止請求を認めています。

個人情報としての患者データ。 個人情報保護法27条1項は、法令に基づく場合などの例外を除き、あらかじめ本人の同意を得ないで個人データを第三者に提供してはならないと定めています。前職の患者データを持ち出して新しいクリニックの案内に使うことは、営業秘密の問題とは別に、この規定との関係でも問題になります。

医師の守秘義務。 刑法134条1項は、医師またはその職にあった者が、正当な理由なく業務上知り得た人の秘密を漏らしたとき、6月以下の拘禁刑または10万円以下の罰金に処すると定めています。条文が「これらの職にあった者」を含めている点からもわかるように、この義務は退職しても消えません。

前職の名前の使い方。 医療法6条の5第1項は、医業や診療所に関する広告について「虚偽の広告をしてはならない」と定めています。同条2項は、他の病院や診療所と比較して優良である旨の広告や、誇大な広告をしないことを求めています。前職の病院と提携しているかのような表示や、前職より優れていると強調する表示は避けるべきです。経歴として前職を記載すること自体は、同条3項9号が広告できる事項に医療従事者の略歴などを挙げており、その具体的な範囲は厚生労働大臣が定めるとされています。広告に載せる前に、その定めを確認してください。

患者が自分から来た場合。 医師法19条1項は「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定めています。前職で診ていた患者が、自分の意思で新しいクリニックを受診した場合、前職の患者だったことだけを理由に診療を断ることはできないと考えられます。誓約書の効力とは別に、患者には医療機関を選ぶ自由があります。問題になりやすいのは、患者が自分で選んだ場合ではなく、前職の情報を使って働きかけた場合です。

在職中の行動にも注意が必要です。労働契約法3条4項は「労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない」と定めています。在職中に患者へ転院を勧めたり、スタッフに移籍を持ちかけたりすることは、誓約書とは関係なく、この信義則との関係で問題になり得ます。退職時の患者の引き継ぎ方は退職時の患者の引き継ぎで詳しく扱っています。

図6: 誓約書の効力とは別に、退職後も残る主な法律上のルール(条文より作成)

署名を求められたとき、署名した後にできること

ここまでの物差しを踏まえて、場面ごとに取れる行動を整理します。

これから署名を求められる場合。 退職の場面で誓約書への署名を求められても、その場で署名する法的な義務はありません。持ち帰って内容を確認したいと伝えるのは、ごく普通の対応です。確認するときは、期間・地域・禁止される行為・代償の4点を書き出し、抽象的な文言があれば具体化を求めます。「同一診療科」が何を指すのか、「半径○km」の起点はどこか、といった点です。範囲の限定や代償の追加を交渉する余地もあります。強い引き止めにあっている場合の対処は退職の引き止めへの対処も参考になります。

すでに署名している場合。 署名済みでも、ここまで見てきたとおり、条項の中身によっては効力が限定される可能性があります。ただし、自分の判断で無効だと決めつけて開業を進めるのは危険です。紛争になれば、開業準備に投じた資金と時間が止まりかねません。開業計画が具体化した段階で、誓約書の原本と就業規則、雇用契約書、在職中の役職と給与の記録をそろえ、弁護士に相談することをお勧めします。

どちらの場合にも共通すること。 患者情報やスタッフの連絡先を私的な端末に持ち出さないこと。在職中に患者やスタッフへ移籍を働きかけないこと。広告で前職の名前を使うときは、事実の経歴の範囲にとどめること。この3つを守るだけで、誓約書の効力とは別に生じるリスクの多くは避けられます。

まとめ:誓約書は「署名したか」ではなく「中身」で点検します

退職後の競業避止の誓約書は、職業選択の自由を制限するものであるため、無条件に効力が認められるわけではありません。知財高裁の判決は、使用者の利益、退職者の従前の地位、制限の範囲、代償措置の有無や内容から効力を検討するという枠組みを示しました。ただし、その事案は医療機関のものではなく、医師の誓約書がどう評価されるかは、条項の具体的な中身と先生の在職中の立場で変わります。

まずは手元の誓約書を4つの物差しで点検し、患者情報・守秘義務・広告の3つのルールは誓約書と関係なく守る。そのうえで、開業計画が具体化したら専門家に相談する。この順番で進めれば、近くでの開業という選択肢を、根拠のない不安だけで手放さずに済みます。

※本記事は一般的な情報の提供を目的としており、個別の事案についての法的助言ではありません。誓約書の効力や開業の可否は、契約の内容と事実関係によって異なります。具体的な判断は弁護士にご相談ください。

参考文献