「病院が保険に入っているから、勤務医個人が別に入る必要はない」。この説明は、勤務先で一度は耳にしたことがあるはずです。ただ、この一文が成り立つかどうかは、患者が誰を相手に請求し、その請求を最終的に誰が負担するのかという法的な構造が確定していなければ判断できません。この記事では、まず責任の所在を条文と司法統計で固定し、そのうえで病院加入の保険が勤務医個人をどこまで覆うのか、覆いきれない領域がどこに残るのかを順に切り分けます。個別の加入判断は最後に保険代理店や所属先の担当部署に確認することが前提です。
結論:不要とは言い切れないが、理由は「訴えられる確率」ではない
先に結論を置きます。勤務医が個人で賠償責任保険に加入する意味は、勤務先での通常の診療にあるのではありません。勤務先の診療については、病院側が契約する保険で処理される構造が組まれているのが通例です。個人加入が意味を持つのは、その構造の外側に置かれる場面です。具体的には、院外のアルバイト先での診療、退職後に提起された請求、病院の契約上の支払限度額を超える部分、そして病院と自分の説明が食い違う場面の弁護士費用です。
つまり「必要か」という問いは、「自分が訴えられる確率が高いか」ではなく、「自分の診療のうち、勤務先の契約が届かない部分がどれだけあるか」という問いに置き換えられます。前者は不安を増やすだけで判断材料になりません。後者は勤務先の契約書面を見れば答えが出ます。
患者は誰を訴えるのか:民法709条と715条を原文で確定する
出発点は条文です。民法709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と定めます(民法・e-Gov 法令API 原文)。主体は「侵害した者」であり、勤務医であるか開業医であるかを区別していません。勤務医であっても、患者から709条にもとづいて直接請求される立場にあります。これが議論の土台です。
一方で民法715条1項は「ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う」と定め、ただし書で選任・監督に相当の注意をしたときの免責を置いています。病院は医師を「事業のために使用する者」にあたるため、勤務医の診療が不法行為と評価されれば、病院も使用者責任を負います。さらに患者と病院のあいだには診療契約があるため、民法415条の債務不履行責任も並びます。
重要なのは、709条と715条が択一ではないという点です。条文はどちらか一方しか成立しないとは書いていません。要件を満たせば両方が成立し、民法719条の共同不法行為として連帯責任の構成も問題になります。実務上、原告が病院だけを被告にすることも、病院と担当医の双方を被告にすることもあります。病院だけが被告になった事件で医師個人が名前を出さずに済むわけではなく、事実関係の主張立証の中心に立つのは担当した医師です。
両方が責任を負うとき、負担はどう分かれるのか
医師個人と病院の双方に責任が成立する場合、両者は患者に対して連帯して賠償する関係に立ちます。民法719条1項は「数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う」と定めています。連帯である以上、患者はどちらに対しても全額を請求できます。同時に、一方が支払えばその範囲で患者の請求権は満たされるため、医師個人が二重に支払う構造にはなりません。
ここから二つのことが導かれます。第一に、患者が病院だけを被告に選んだとしても、それは医師個人の責任が否定されたからではなく、回収の確実性など原告側の判断による場合があります。第二に、病院が支払った後に残るのは、患者と医師の関係ではなく、病院と医師の内部関係、つまり次節で扱う求償の問題です。対外的な責任の話と、内部的な負担の分配の話を分けて考えることが、保険の必要性を判断する前提になります。
「病院の業務としてやった」は709条の抗弁にならない
勤務医からよく出る反応が「自分は病院の指示で診療しているのだから、責任は病院にあるはずだ」という整理です。しかし715条は、病院に責任を追加する条文であり、医師個人の709条責任を消す条文ではありません。条文の文言をどう読んでも、被用者の責任を免除する規定は置かれていません。勤務関係の存在は、患者に対する責任の所在を変えるのではなく、請求先の選択肢を増やすものだと理解しておくのが正確です。
715条の「事業の執行について」と、誰が使用者かという問題
715条1項の適用には、損害が「その事業の執行について」加えられたことが必要です。常勤先の通常業務であれば、この要件で争いになることは多くありません。問題は勤務形態が複線化している場合です。大学からの出張、当直の応援、人材紹介を経由した非常勤勤務では、指揮命令をしていたのがどの法人なのかが一義的に決まりません。誰が「ある事業のために他人を使用する者」なのかが争われれば、715条の責任がどの法人に帰属するのかも事前には読めません。
ここで押さえておきたいのは、この争いが医師個人の709条責任には影響しないという点です。使用者が誰かという論点は、病院側の責任の帰属を決めるだけです。医師個人が709条の当事者であることは、勤務形態がどれだけ複雑でも変わりません。逆に言えば、勤務形態が複雑になるほど「自分を覆う契約が一つも存在しない状態」が生まれやすくなります。
民事・刑事・行政は別の線路として動く
責任という言葉は三つの意味で使われます。民事の損害賠償責任(709条・715条・415条)、刑事の責任(業務上過失致死傷罪などの捜査・訴追)、そして行政上の処分(医師法にもとづく免許に関する処分)です。この三つは判断主体も要件も別で、一方の結論が他方を拘束するわけではありません。
賠償責任保険が扱うのは、このうち民事の損害賠償と、それに伴う争訟費用だけです。刑事手続の弁護費用や行政処分への対応が対象に含まれるかどうかは契約ごとに異なり、含まれないことを前提に設計されている場合もあります。「保険に入っているから何かあっても大丈夫」という理解は、三つの線路を一本に束ねてしまっている点で正確ではありません。確認するなら、線路ごとに何が対象なのかを分けて聞くのが確実です。
病院が賠償したあと何が起きるか:715条3項の求償
次に確定させるべきは、病院が患者に賠償金を支払った後の関係です。民法715条3項は「前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない」と定めています(同前)。文言上、病院から医師への求償は否定されていません。
ただし、この求償が支払額の全額に及ぶとは考えられていません。最高裁昭和51年7月8日判決(民集30巻7号689頁、いわゆる茨城石炭商事事件)は、使用者が被用者に対して求償や損害賠償を請求できるのは、事業の性格や規模、施設の状況、被用者の業務内容と労働条件、加害行為の態様、損害の発生に対する使用者の配慮の程度などに照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度に限られるという枠組みを示しました。同判決では請求できる範囲が損害額の一部にとどまると判断されています。ただし同判決は運送・販売業の自動車事故に関する事案であり、医療の現場でこの枠組みを当てはめた場合にどこまでが「相当と認められる限度」になるのかは、判決が挙げた諸事情を個別に評価して決まります。上限が一律に決まっているわけではない、という理解にとどめるのが正確です。なお被用者が先に賠償した場合に使用者へ求償できるか(いわゆる逆求償)についても、最高裁令和2年2月28日判決(民集74巻2号106頁)が判断を示しています。
この構造を実務的な言葉に置き換えると、次のようになります。勤務医が勤務先の診療で最終的に自腹を切る事態は制度上ありえないわけではないが、求償は信義則で絞られる。したがって勤務先の診療について、個人加入の主目的を「求償への備え」に置くのは筋が悪い。備えるべきは、求償ではなく、後述する「範囲の外側」です。
訴訟の実像を数字で見る
責任の構造が確定したところで、実際にどれだけの事件が動いているのかを司法統計で確認します。煽るためではなく、判断の分母を持つためです。
最高裁判所「医事関係訴訟に関する統計」によると、医事関係訴訟の新受件数は令和7年(速報値)で676件、令和6年は664件、令和5年は611件でした。平成15年の1,003件、平成16年の1,110件をピークに水準は下がり、近年は年600〜800件台で推移しています。既済件数は令和7年(速報値)674件、令和6年683件です。全国で年間およそ600〜700件という規模は、医師の総数と照らせば、個々の医師が当事者になる頻度としては高いものではありません。ただし頻度の低さは、当たったときの負担の軽さを意味しません。判断に使うべきは頻度ではなく、次に見る審理期間と、負担が誰に配分されるかという構造の方です。
審理の長さも同統計に出ています。医事関係訴訟の平均審理期間は令和7年(速報値)24.1か月、令和6年24.7か月、令和5年と令和4年はいずれも26.4か月でした。同じ年の地裁民事第一審通常訴訟が令和7年8.9か月、令和6年9.2か月ですから、医事関係訴訟は通常訴訟の2.5倍以上の時間がかかっています。金銭の問題以前に、2年前後にわたって当事者として関与し続ける負担が生じるという意味です。
認容率は、判決総数に対して認容(一部認容を含む)が占める割合として集計されています。医事関係訴訟(地裁)は令和7年(速報値)23.9%、令和6年17.8%、令和5年20.0%で、直近10年は17〜24%の範囲にあります。同じ期間の地裁民事第一審通常訴訟全体は80〜87%台です。
終局のしかたも特徴的です。医事関係訴訟の既済のうち和解で終わった割合は令和7年(速報値)51.3%、令和6年51.0%と半数前後を占め、判決に至るのは令和7年35.8%、令和6年37.3%です。
診療科目別の既済件数も公表されています。令和7年(速報値・地裁)の合計657件のうち、内科158件、外科88件、歯科77件、整形外科58件、形成外科38件、精神科(神経科)36件、産婦人科36件という分布です。同統計には、この数値は各診療科における医療事故の起こりやすさを表すものではないという注記が明記されています。科ごとの母数(患者数・手術件数)が違うため、件数の多寡から発生率を読み取ることはできません。
数字から読み取れるのは次の一点です。判決で請求が認められる割合は低い水準にあるが、そこに至るまでに2年前後を要し、半数は和解で終わる。保険が働く場面は「敗訴して賠償する場面」よりも、「和解に至るまでの手続と費用を誰が負担するか」という場面の方が広い、ということになります。
請求は訴訟の前から始まっている
司法統計が数えているのは、裁判所に持ち込まれた事件だけです。実際には、患者側からの説明の求め、診療録の開示請求、代理人弁護士からの通知、示談交渉、医師会や弁護士会が運営する医療ADR(裁判外紛争解決手続)といった段階が訴訟の前にあります。訴訟に至らずにこの段階で終わる事案のほうが数としては多いと考えるのが自然です。
この前段階でも、事実関係の整理、診療録の読み込み、専門的な意見の取得といった作業が発生します。誰がその費用と時間を負担するのかは、訴訟になってからの話ではなく最初から問題になります。病院加入の保険がこの段階の費用をどう扱うか、そして交渉の窓口を誰が持つのかは、契約と院内の運用の両方で決まります。
前節で見た和解の割合が半数前後という数字も、この文脈で読むと意味が変わります。判決による白黒ではなく、交渉と手続の積み上げで着地するケースが主流だということです。備えるべき対象が「賠償金」だけではないと述べたのはこの意味です。
病院加入の保険は勤務医個人をどこまで覆うのか
ここまでで、勤務医個人が709条の当事者になりうることと、病院にも715条の責任が及ぶことが確定しました。では病院が契約する賠償責任保険は、医師個人の709条責任を処理してくれるのか。これは法律の問題ではなく、個々の保険契約の条項の問題です。確認すべき項目は次の四つに整理できます。
- 被保険者の範囲に「当該病院に勤務する医師」が含まれているか。含まれていなければ、医師個人に向いた請求は契約の対象外です
- 支払限度額が1事故あたり・保険期間中それぞれいくらか。限度額は病院と他の医師で共有されるため、自分専用の枠ではありません
- 免責事由に何が並んでいるか。故意や、業務範囲外の行為に関する除外が置かれることがあります
- 争訟費用(弁護士費用・訴訟費用)が対象になるか、そして誰の弁護士を選ぶ権限が誰にあるか
四つ目は見落としやすい論点です。病院と医師が共同被告になった場合、病院が選任した弁護士は病院の利益を代理します。多くの事件では両者の利害は一致しますが、たとえば「指示は適切だったが実施者の判断に問題があった」という構図が浮上すると、主張が分岐します。このとき自分の側の主張を組み立てる費用を誰が出すのかは、契約書面を見るまで分かりません。
個人加入が意味を持つ五つの場面
以上を踏まえると、個人加入を検討する理由は、不安ではなく構造から導けます。
一つ目は、院外のアルバイト先・非常勤先での診療です。 勤務先の契約は自院の業務を対象に設計されるため、他院での診療は通常その外側に置かれます。副業として複数の医療機関で診療している場合、どの施設のどの契約がどの診療を覆うのかを施設ごとに確認する必要があります(関連:勤務医のバイト掛け持ちと上限、医師の兼業届の手続き)。
二つ目は、退職後に来る請求です。 民法724条は、不法行為の損害賠償請求権が、被害者が損害および加害者を知った時から3年、不法行為の時から20年で時効消滅すると定め、724条の2は人の生命・身体を害する不法行為についてこの3年を5年に読み替えます。診療から数年後に請求が届く可能性が条文上残っているという意味です。請求時点で在籍していない医師が、当時の勤務先の契約でどう扱われるかは、その契約が採る補償のトリガー(請求ベースか発生ベースか)によって変わります。転職や開業を控えている段階では、この切れ目を確認する価値があります。
なお、患者が病院に対して診療契約の債務不履行を主張する場合の時効は別の条文で動きます。民法166条1項は債権が「債権者が権利を行使することができることを知った時から5年」または「権利を行使することができる時から10年」で時効消滅すると定め、167条は人の生命・身体の侵害による損害賠償請求権についてこの10年を20年に読み替えます。不法行為として構成するか契約責任として構成するかで起算点と期間が変わるため、「もう何年も経ったから大丈夫」という感覚は条文の上では裏づけられません。
三つ目は、支払限度額を超えた部分です。 高額な賠償が想定される領域を担当している場合、病院の限度額が自分の事件だけに使われるとは限りません。
四つ目は、病院と利害が対立する場面の弁護士費用です。 前節の四つ目の論点と同じ問題で、自分の代理人を自分で確保できる状態を作るかどうかという判断になります。
五つ目は、指揮命令系統が複線化している勤務形態です。 当直の応援、派遣、大学からの出張といった形態では、誰が715条の「使用者」にあたるのかが争点になり、責任の帰属が事前に読み切れません。
医療事故調査制度と賠償責任は別の線路にある
保険の話をするとき、医療事故調査制度と混同されることがあります。厚生労働省の説明によれば、この制度が対象とする医療事故は「医療従事者が提供した医療に起因し、又は起因すると疑われる死亡又は死産であって、当該管理者が当該死亡又は死産を予期しなかったもの」です。報告の主体は医療機関の管理者であり、遺族が直接報告する仕組みではありません。そして過誤の有無を要件としていません。誤りがなくても、予期しなかった死亡・死産であれば対象になります。
制度の目的は医療事故の再発防止による医療安全の確保であり、個人の責任を確定させることではありません。したがって、院内調査の結果と、民事の709条・715条の評価は、そのまま一致するものではありません。両者を同じ線路の上に並べて考えると、判断を誤ります。
制度として公表されている枠組み
個人加入を検討する場合の前提知識として、公表されている制度の骨格だけを事実として押さえておきます。ここでは商品の優劣を比べません。
日本医師会の説明によると、日本医師会医師賠償責任保険制度は日本医師会が保険契約者となり、対象となるA①・A②(B)・A②(C)会員は個別の加入手続きを必要としません。支払限度額は1事故につき1億円、保険期間中3億円を最高限度とし、免責金額は同一医療行為につき1事故100万円です。紛争処理の過程では、賠償責任審査会が中立の立場で医学的・法律学的見地から審査を行う仕組みが置かれています。さらに任意加入の日医医賠責特約保険については、記名会員個人の日本国内の医療行為が補償対象となり、支払限度額は1事故3億円・保険期間中9億円と公表されています。
特約保険の免責金額についても1事故100万円とされる一方、争訟費用には免責金額の適用がないと説明されています。免責金額の有無と、その免責が賠償金にかかるのか争訟費用にもかかるのかは、実際に手元から出る金額を左右します。制度の説明を読むときは、支払限度額と同じ重さでこの二点を確認しておくのが実務的です。
会員区分の該当性、勤務形態との適合、他の枠組みとの重複の有無は、いずれも個別事情で変わります。ここに書いた内容は制度の輪郭にすぎず、自分に当てはまるかどうかの判断材料としては足りません。
まとめ:契約書面を1枚取り寄せることから始める
問いを整理し直します。「勤務医に医師賠償責任保険は必要か」に一般解はありません。あるのは「勤務先の契約が自分の診療のどこまでを覆っているか」という個別の事実です。順序は次のとおりです。
- 勤務先の賠償責任保険の被保険者範囲・支払限度額・免責事由・争訟費用の扱いを書面で確認する
- 院外の診療(アルバイト・非常勤・応援当直)が、どの契約の対象にもなっていない状態かを確認する
- 退職・転職の予定があるなら、退職後に来た請求の扱いを確認する
- 上の三つで空白が見つかった場合に限り、個人加入の検討に進む
1から3は所属先の事務担当部署に依頼すれば取り寄せられる情報です。4の判断、つまり実際にどの枠組みに加入するかは、保険代理店または所属先の担当部署に相談してください。本記事は責任の法的構造と統計、公表制度の輪郭を整理したものであり、個別の加入判断や医療行為の当否、過失の有無について何かを述べるものではありません。
関連記事として、勤務医の保障の重複を整理した医師に医療保険はいらないのか、支出の扱いを扱った勤務医の節税で多い誤解も合わせて確認してください。
